56歳になって、歳を取ったなと思うことが増えました。
まず、近いものが見えなくなりました。
老眼です。
記憶力も以前より落ちていますし、体力も落ちています。
そんなとき、
「ああ、歳は取ったな」
と思います。
ただ、歳を取ること自体が嫌なのかと言われると、そうでもありません。
極端な話、100歳でも500歳でも1000歳でも、元気なのであれば私は別に構いません。
嫌なのは年齢という数字ではなく、
できることが少しずつ減っていくこと
なんだと思います。
一番怖いのは、自分で歩けなくなること
これから60代、70代、80代と歳を重ねていけば、今できていることが少しずつできなくなっていくのでしょう。
その中で何が一番怖いかと考えると、私は自分で歩けなくなることかもしれません。
今は自分の足で歩けます。
買い物にも行ける。
外食にも行ける。
旅行にも行ける。
家庭菜園もできます。
でも、自分で歩けなくなれば、今のようにはいきません。
もちろん車椅子を使ったり、誰かに手伝ってもらったりすれば、できることもあるでしょう。
ただ、今の私の感覚では、人にお世話をしてもらってまで、どこかへ行きたいとはあまり思いません。
自分でできなくなることも嫌ですし、それをするために誰かの世話にならなければならないことも嫌です。
だから、できることが減っていく未来には、怖さというより、少し寂しさがあります。
「しょうがない」で済ませられるかは分からない
私はこれまで、思いどおりにならないことがあったとき、
「しょうがない」
と考えることが多かったと思います。
自分にできることをやった。
それでもダメだった。
だったらしょうがない。
次を考えればいい。
そんなふうに生きてきました。
では、歳を取って自分の体が動かなくなったときにも、
「歳なんだからしょうがない」
と簡単に思えるのでしょうか。
これは分かりません。
実際にそのときになったら、
「まだ歩きたい」
「まだ旅行に行きたい」
「昔みたいに動きたい」
と悲しんで、できなくなったことに執着するかもしれません。
今の私には分かりません。
経験していないことを、
「私はきっと受け入れられる」
とは言えないと思っています。
だから、今やりたいことは今やっている
一方で、今できることについては、できるだけやっています。
食べたいものがあれば食べる。
行ってみたいところがあれば旅行する。
やってみたいことがあればやってみる。
もちろん、お金には限りがありますから何でもできるわけではありません。
でも、今やりたいことを何十年も先まで取っておこうとは思いません。
だから、
「死ぬまでに絶対これだけはやっておきたい」
というものも、今のところ特にありません。
やりたいことは、今やっているからです。
若い頃の私に「穏やかに生きろ」と言っても分からなかったと思う
歳を取ることで、できなくなったことはあります。
でも逆に、若い頃にはできなかった生き方ができるようになったとも思います。
その一つが、
穏やかに生きよう
と考えられるようになったことです。
若い頃の私には、おそらくこんな発想はありませんでした。
会社員だった頃は競争も好きでした。
人に勝ちたい。
営業成績を上げたい。
同期より上に行きたい。
そういう気持ちも強かった。
では、若い頃の私に今の私が、
「そんなに競争しなくてもいいよ。もっと穏やかに生きた方がいいよ」
と言ったらどうでしょう。
おそらく、よく分からなかったと思います。
たぶん、
「そんな生活、暇なんじゃないの?」
と思ったんじゃないでしょうか。
でも今の私は、その「暇なんじゃないの?」と思っていたような生活をしています。
そして、それが心地いい。
若い頃の私と56歳の私は、同じ人間なのに、楽しいと思うものが変わっているんです。
89歳の母は、ずっとテレビを見て笑っていた
母は89歳で亡くなりました。
晩年の母を見ていて、私には不思議なことがありました。
とにかくテレビをよく見るんです。
ずっとテレビを見ている。
そして笑っている。
私からすると、
「よくそんなにずっとテレビを見ていられるな」
と思いました。
暇じゃないのかな。
退屈じゃないのかな。
そんなふうにも思いました。
でも、本人は何だか楽しそうなんです。
だからといって私は、
「こんな老後もいいな」
と思ったわけではありません。
反対に、
「自分は絶対にこんな生活は嫌だ」
と思ったわけでもありません。
ただ、
「自分も歳を取ったら、こんなふうになるのかな」
と思いました。
80歳の楽しさを、56歳の物差しでは測れない
今になって考えると、若い頃の私から見た今の私と、56歳の私から見た89歳の母は、少し似ているのかもしれません。
若い頃の私が今の生活を見たら、
「毎日そんな生活で暇じゃないの?」
と思ったかもしれない。
でも56歳の私は、今の生活を楽しんでいます。
一方、56歳の私は、テレビをずっと見て笑っている母を見て、
「よく退屈しないな」
と思っていた。
でも母は楽しそうだった。
だったら、私が80歳、90歳になったときも同じかもしれません。
今の私は旅行が楽しい。
外食もしたい。
家庭菜園もしたい。
投資のことを考えるのも好きです。
でも、80歳の私が同じことを楽しいと思っているとは限りません。
今はまったく興味のないことを楽しんでいるかもしれない。
あるいは母のように、テレビを見ながら笑っているだけで、
「今日も楽しかったな」
と思っているかもしれません。
80歳の私が何を楽しいと思うのかを、56歳の私はまだ知らないんです。
できることが減っても、楽しみまで同じように減るとは限らない
歳を取れば、できることは減っていくと思います。
それは嫌です。
「歳を取れば別の楽しみがあるから大丈夫」
と簡単に言うつもりもありません。
実際に歩けなくなったら、私はものすごく悲しむかもしれない。
できなくなったことに執着するかもしれない。
それは、そのときになってみなければ分かりません。
ただ一つ思うのは、
できることが減るのと、楽しみが減るのは、必ずしも同じではないのかもしれない
ということです。
若い頃には分からなかった「穏やかに暮らす楽しさ」を、私は今知っています。
だったら80歳になれば、80歳になった私にしか分からない楽しさがあるのかもしれません。
90歳の私がテレビを見て笑っていたら
もし90歳になった私が、母と同じように一日中テレビを見ていたとします。
テレビを見ながら笑って、
「ああ、今日も面白かった」
と思っている。
56歳の今の私がその姿を見たら、
「もっと何かしたら?」
と思うのでしょうか。
たぶん、思わないでしょう。
本人が楽しんでいるのであれば、
「もう、その生活でいいんじゃないの」
と思います。
高齢になれば、残されている時間も若い頃ほど長くありません。
だったら、周りからどう見えるかより、本人が毎日を楽しいと思えることの方が大事なんじゃないでしょうか。
旅行をしているから充実している。
外に出ているから元気な老後だ。
趣味がたくさんあるから幸せだ。
そうとは限らないと思います。
テレビを見て笑っているだけでも、本人が楽しいなら、それでいい。
少なくとも私はそう思います。
その年齢にならないと分からないことがある
56歳の私は、老眼になりました。
記憶力も体力も落ちました。
「ああ、歳を取ったな」と思います。
これからもっと、できないことは増えていくでしょう。
それを私は寂しいと感じています。
でも、今から80歳、90歳の自分の生活を見て、
「そんな生活では楽しくないだろう」
と決める必要もないのかもしれません。
若い頃の私には、今の穏やかな生活の良さが分かりませんでした。
56歳の私には、89歳だった母がテレビを見て笑い続けられることが不思議でした。
だったらきっと、今の私にはまだ分からないことがある。
80歳になったら、80歳の楽しみがあるかもしれない。
90歳になったら、90歳の楽しみがあるかもしれない。
そして90歳の私が、テレビを見ながら一日中笑っているのなら。
もう、その生活でいいんじゃないの。
今は、そんなふうに思っています。


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