母の四十九日をしなかった。「法事は何のためにするのか」を56歳の私が考えた

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母が亡くなって、四十九日が過ぎました。

私は母の葬儀はしましたが、初七日も四十九日もしていません。

お坊さんを呼んで、お経をあげてもらうこともしませんでした。

おそらく一周忌も、何もしないと思います。

こう書くと、

「お母さんの供養をしなくていいの?」

と思う人もいるかもしれません。

私自身も、まったく迷いがないわけではありません。

「本当にこれでよかったのかな」

と思うことはあります。

それでも法事をしなかったのは、以前からずっと、

「そもそも法事は何のためにするんだろう」

という疑問があったからです。

父の法事は十三回忌までやった

父のときは、十三回忌まで法事をしました。

ただ、私が中心になってやっていたというより、母が生きていましたから、母がやっていたという感覚です。

一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌。

そういうものだと思っていました。

ところが、以前、お坊さんに聞いてみたことがあります。

「そもそも、なぜ法事をするんですか?」

そこで「追善供養」という考え方を教えてもらいました。

私が聞いた説明では、残された人が故人のために善い行いをし、その功徳を故人に振り向ける。そして、供養をする自分自身も徳を積むことができる、というものでした。

実際、日蓮宗の公式サイトにも、塔婆を建てることは先祖への供養になるだけでなく、自分自身も功徳を積むことになるという説明があります。

私は日蓮宗の家ですから、そういう考え方があることは分かります。

でも、その説明を聞いて、私は逆に考えてしまったんです。

「自分も徳を積める」に引っかかった

もちろん、これは私個人の感じ方です。

「故人のためにするんですよ」

と言われれば、何となく理解できます。

母のため、父のため。

それなら分かります。

でも、

「あなた自身も徳を積むことができます」

と言われたとき、私は少し引っかかりました。

例えば、困っている人がいたとします。

その人を助ける。

私は、それは困っている人のためにするものだと思っています。

ところが、

「この人を助けると、あなたも徳を積めますよ」

と言われたら、何となく変な感じがするんです。

自分のために親切にするのだろうか、と。

もちろん結果として自分にも何かが返ってくる、という考え方はあるのでしょう。

それを否定するつもりはありません。

ただ、私はそこに違和感を持ちました。

母のために法事をするはずなのに、「あなたにもメリットがありますよ」と言われているように、私には聞こえてしまったんです。

お坊さんがお経を読むことだけが供養なのだろうか

もう一つ、疑問があります。

お坊さんを呼んで、お経を読んでもらう。

それが供養になるのであれば、

では、私が母の写真に向かって、

「今までありがとう」

と手を合わせることは供養ではないのでしょうか。

母が亡くなって、まだそれほど時間はたっていません。

母が寝ていたベッドを見ると、今でも思い出します。

「今、何をしているんだろう」

「死んだ後って、どうなっているんだろう」

そんなことを考えることもあります。

法事をしていないからといって、母のことを忘れているわけではありません。

むしろ私は、

母からもらった人生を、これから自分がしっかり生きていく。

それも母への感謝の表し方ではないかと思っています。

母が今の私を見ることができるのかどうかは、私には分かりません。

でも、もし見ることができるのであれば、私が元気に生きていることを喜んでくれるのではないでしょうか。

私は、それも一つの供養ではないかと思っています。

同じ仏教でも、法事の意味は同じではない

法事について考えていて興味深いと思ったことがあります。

同じ仏教でも、宗派によって考え方が違うんですね。

例えば私の家の日蓮宗では、追善供養という考え方があります。日蓮宗の公式サイトにも、日蓮聖人が師であった道善房の追善供養のために『報恩抄』を書いたと説明されています。

ところが、浄土真宗本願寺派では考え方が違います。

本願寺派の公式サイトでは、亡くなった人は阿弥陀仏の救いによってすでに浄土に生まれて仏となっているため、残された人が善を積んで故人へ振り向ける必要はない、と説明されています。

そして法事は、亡くなった人のために善を送るものではなく、亡くなった人をご縁として、残された私たちが仏法を聞く機会だとされています。

私は、ここが興味深いと思うんです。

同じ「法事」というものをやっていても、その意味の捉え方まで同じとは限らない。

だったらなおさら、

「法事だからやる」ではなく、「自分は何のためにやっているのか」を知ることが大事なのではないか。

そんなふうに思います。

家族が集まる機会なら、意味はあると思う

私は法事そのものを否定しているわけではありません。

例えば、法事をきっかけに家族や親戚が集まる。

亡くなった人の思い出を話す。

「あんなことがあったね」

「こんな人だったね」

と故人のことを思い出す。

あるいは、それをきっかけに死について考えてみる。

仏教徒なら、お釈迦様の教えについて考えてみる。

そういう時間であれば、私は意味があると思います。

だから、私が死んだあと、子供たちが法事をしたいのであれば、すればいいと思っています。

「私の法事は絶対にするな」

なんて言うつもりはありません。

やる人が決めればいいと思います。

ただ、それなら一周忌でなければいけないのか。

みんなの都合が合う2年後ではいけないのか。

必ずお坊さんを呼ばなければならないのか。

私は、そんなことまで考えてしまいます。

母の一周忌もしないと思う

母の場合、親族といっても、今では私と姉くらいです。

そこに妻が加わって3人です。

子供たちを呼ぶこともできるでしょう。

でも遠方から交通費を使って、小さな子供たちまで連れてくるとなれば大変です。

「一周忌だから」という理由だけで、そこまでして集まってもらう必要があるのだろうか。

私はそう考えます。

では3人でお坊さんを呼び、お経をあげてもらえばいいのか。

そこでまた、

「私は何のためにこれをするんだろう」

という最初の疑問に戻ってしまいます。

だから今のところ、母の一周忌も何もしないと思います。

それでも「やった方がよかったのかな」と思うことはある

ただ、ここは正直に書いておきたいと思います。

私は、

「法事なんて必要ない」

と100%割り切っているわけではありません。

多少の不安はあります。

今までずっとやってきたことを、自分の代でやらない。

人間というのは、そういうときに不安になるものではないでしょうか。

「やっぱり、やった方がよかったのかな」

「母に申し訳ないかな」

そんな気持ちがまったくないと言えば嘘になります。

でも反対側には、

「自分が意味を納得できていないことを、なぜやるんだろう」

という気持ちもあります。

私は今、その二つの間にいます。

「やらないといけない気がする」と悩んでいる人もいると思う

法事や葬儀、お墓について、

「本当に必要なのかな」

と考えている人は、今は少なくないのではないでしょうか。

ただ、やめるとなると気持ちが悪い。

親に申し訳ない。

先祖に申し訳ない。

何となく、やらないといけない気がする。

そういう気持ちもあると思います。

私自身にもあります。

だから私は、「法事をやめた方がいい」と言いたいわけではありません。

反対に、「絶対にやるべきだ」と言うつもりもありません。

ただ、

「やらないといけないのかな」と疑問を持ったのであれば、「そもそも何のためにやるんだろう」と一度考えてみてもいいのではないか。

そう思っています。

形式だけでは、いずれ続かなくなるのではないか

昔は今ほど簡単に情報を調べられませんでした。

親がやっていた。

祖父母もやっていた。

だから自分もやる。

それで続いてきた部分もあるのかもしれません。

でも今は、分からなければすぐに調べられます。

「なぜ一周忌をするの?」

「なぜ三回忌なの?」

「なぜお経を読むの?」

「なぜお墓が必要なの?」

そういう疑問を持つ人は、これから増えていくのではないでしょうか。

だからこそ、お坊さんの役割も大きいのではないかと私は思っています。

法事をしてください、お経をあげましょう、というだけではなく、

なぜそれをするのか。そこにはどんな教えがあるのか。

それを伝えることが、これからますます大切になるのではないでしょうか。

意味が分からないまま形式だけを続けていれば、いつか、

「じゃあ、やらなくてもいいんじゃない?」

となってしまう気がします。

私はまだ答えを出せていない

母の初七日も四十九日もしませんでした。

一周忌もしないと思います。

でも、それが正しい選択だったのかと聞かれれば、私には分かりません。

法事をする人が間違っているとも思いません。

法事をしない私が正しいとも思いません。

ただ私は、自分が納得できないまま、

「昔からそうだから」

「みんなやっているから」

「やらないと何となく不安だから」

という理由だけで続けることができませんでした。

母の写真に手を合わせて、

「ありがとう」

と言う。

母のことを思い出す。

そして、自分自身がこれからもしっかり生きていく。

今の私には、その方が母への感謝として自然に感じます。

法事とは何のためにするのか。

供養とは何なのか。

私自身、まだ考えている途中です。

だから、もし同じように、

「法事って、本当にやらないといけないのかな」

と感じている人がいるのであれば、すぐに「やる」「やらない」と決めなくてもいいのではないでしょうか。

まずは、

「自分は何のために法事をするんだろう」

そこから考えてみる。

私も、そこから考え始めました。

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